追悼 古澤良治郎氏/ありがとう!古澤さん


 昭和20年9月に仙台で生まれ、そこは占領下。『仙台はね、軍隊が強かったからアメリカ軍がだいぶ後までいてさ、だからギブミーチョコレートって言ってけっこうもらったんだよ。』子供心にもなにか口惜しい思いをしながら、歯を食いしばって育ったに違いない。幼少期から外国との接点があった古澤さん。高校時代にラジオで流れた<トリス・ジャズゲーム>を聴いてのめり込んだ。18歳まで仙台、あとはずっと西荻。


果てぬ好奇心

 『なんで?』——おなじみの語尾が上がる仙台訛りのイントネーションは、語韻の特徴だけでは無く、古澤さんの果てしない好奇心の現れだ。『なぜあなたはそう思ったのか』と問われる。曖昧な返事はできない。一つ答えてもまたその理由について『だからなんで?』と聞かれる。古澤さんと話すには用意と気力体力が要る。そのやりとりがずっと続く、『俺、帰る…』って言うまで。

演奏においては、こちらがどんな稚拙なフレーズを弾いていようと、寛容な応えが返ってくる。そこには次のフレーズを弾かせてくれる、次の言葉を喋らせてくれるヒントと愛がある。

世界一のレゲエ

 1970年代後期、この頃のジャズバンドはコルトレーンの影響を受けた小さなリフを起点に、大きく長尺に展開するやり方が主流だった。そのころ古澤さんは、スイングやアフリカをルーツとしたリズムだけではなく、中南米を始め世界中に興味が広がっていた。その一つがレゲエだった。レゲエには独特のバウンド感、浮遊感がある。古澤さんはレゲエの中に更に大きくユニークな空間を見つけ、そこにみんなをいざなった。バンドにギターが必要になり大出元信氏(故人)が抜擢され、カルテットあらため古澤良治郎クインテットがスタートした。古澤さんは町で偶然見かけた大出に『俺のバンドで弾かない?!』と音も聴かずに誘った。これは二人とも凄い。しかしスタートして間もなく大出とのスケジュールが合わなくなり退団、近くに居た私が入団した。ジャズをやろうと思っていた若いギタリストは、このレゲエの”ン・チャ・ン・チャ”っていうリズムを刻むのが最初はどうも恥ずかしかった。しかし古澤さんの狙いは遙か先にあり、ハイハットとギター&キーボード、キックとベースなどが組み合わさったときの音色効果や、そのパワーをイメージしていた。

良治郎バンドになってからは常に2キーボード、2ギター(3ギターの時もあった)。同じ楽器(特にリズム隊)が複数の時はアイディアやセンスが求められる。プレーが重複しないよう、役割が分担されるよう、周囲を見渡す訓練が続いた。ドラムを叩く古澤さんから大音量の中、よく聞こえるなという声で『切れ!』と指示が飛んだ。そういうとき気がつけば、不規則でタイトではないバッキングをしていた。古澤さんの要求は、この編成の場合少なくとも一人ずつのピアニストとギタリストがリズムを切るということ。元よりの色彩感覚と、楽器の音色の組合せを網羅するクラシックを経験してきたことも大きい。こうして誰も表現したことの無い音色と空間を演奏することに成功した。それがあの広大で豊か、そして暖かな古澤さんのレゲエだ。

二人のベーシスト

 古澤さんは活動当初から、グズラさん(望月英明氏)とバタさん(故・川端民生氏)という二人の優れたベーシストに恵まれた。ベースというポジションに対し不安を抱いたことが無いという。なんと幸せなドラマー人生だと思うが、古澤さんだからこそ得られたのだ。『グズラとバタがさ…』と話す口調には自信と幸せが溢れていた。古澤カルテット、クインテット時代のグズラさんのウッドベース。子供のように無邪気に思いつくまま叩く古澤さんを、これぞ根底からしっかり支えるシンプルな低音。さぞ古澤さんは自由で安心だっただろう。良治郎バンドになってからはバタさんのエレキベース。8人から10人のメンバーを支える屋台骨の構築には、それまでにはないチャレンジと緊張感があった。ドラムとベースが織りなすリズムパターンは、古澤さんの曲を、ひいては一つの音楽を完成させる礎となった。

 このころ、周囲の期待と責任の大きさに苦悩する古澤さんの姿を見ることがあった。大きなスケールと才能を持ち合わせる者の宿命。またその後、年下のバタさんが早くに亡くなったことで、古澤さんの心と人生に大きな穴が空いてしまった。


大群の将

 今思えば、良治郎バンドになってからはこの言葉がピッタリだった。古澤さんは2小節(数え方によっては4小節に相当する)のフィルインを叩ける(もちろんもっと長くても)。例えば、スネアの連打だけでも表情を変えながら、遠くの次の景色が見えるところまでみんなを連れて行くことができる。次にどう展開したいか、どういう方向に行きたいかというメッセージそのものだ。ここぞという場面で叩かれる息の長いハッキリとしたフィルインは、さながら幾千幾万の大群を号令一下進軍させるような一大スペクタルに観える。

よく弟子達に『必ずフィルして入ってこい!』と言っていた。”いきなり叩き始めるな、一拍目からなんの予告もなく曲に入ってくるな”という教え。これはどんな楽器にでも同じ事が言えるが、ドラムは音楽に与える影響力の大きさから”次を予測して、思い切りよくかつ慎重に”との意。

古澤ミュージック結実の証、アルバム<たまには(1983年)>の”Peak Wind”の中で、通常は4拍目に一発スネアを叩くであろうはずのところで、あえて叩いていない個所がある。このセンスには鳥肌が立つ。抜く美学はあるべきものが揃いうる上で成立する。そう来るだろうというところでの裏切りという色気。

作曲家・古澤良治郎

 古澤さんの曲を音楽の教科書に載せて欲しい、メディアや街角でもっと流れて欲しいと思うのは、私だけではないだろう。散歩中にも作曲する古澤さん。日常の小さな変化も逃さず感じ取り、楽器がそこに無くともあっという間に曲にしてしまう。そうしてできた曲は、誰もが親しみ口ずさんでいる。万人が自然に歌えるのは、メロディが日本語でできているからだ。古澤さんはクラシックを学び(ピアノもかなり上手い)、ジャズに心酔し、様々なリズムを探求した。西荻に居ながら世界を何周もするぐらい研究し、若くして原点に回帰した。その発想は極めて日本的、日本語人らしい。世界中の音楽、リズムを咀嚼した人間が、母国語で、日常を表現した最も自然体な作風。何一つ借り物ではない深奥からのメッセージは世界にも伝わった。バンドメンバーと演奏するときをイメージしたり、家族や友人に聴かせてあげよう、捧げようと思ったり、常にその対象を想い、動機を持ち続けた。これは好奇心と愛に他ならない。聞こえる、『あいだよ、愛!』

その作品一つひとつに対し、綿密に考えられた、もしくは同時に生み出されたリズムパターンが、曲の足下を支える。自作自演は音楽の中で最も説得力を持ち、強いとされる。そんななか古澤さんはドラマーという、バンドメンバーを鼓舞し引き出す役割にいた。自分自身ではメロディを弾くわけでもないし歌わない(うたっているように見えるけど)、和音も弾かない状態で、自分の音楽をあそこまで具現化するには、相当の周到さと慎重さがあったと思えてならない。メロディとリズムのアイディア、つまり幹と土台を古澤さんが持って来る。あとはメンバーが自由に個性を活かすことによってカラフルに発展する。共演者の潜在能力を喚起する才能も秀逸だ。ジャズバンドにはライブの前に30分ぐらいの、音合わせのような、リハーサルのような時間がある。本番での即興性に重きをおくため、練習時にはさほどガチガチにしない。そこに古澤さんが新曲を持って来たときにはもうアレンジができ上がっている。

無上の連鎖

 リズムパターンという言葉を何度も使ってきたが、ホントは古澤さんには相応しくない。1ないし2小節の繰り返す形をリズムパターンと称するが、古澤さんの場合、その中でも一つとして同じ音は叩かない。自らが開発したリズムを叩きながらも、一音一音確かめ一歩一歩踏みしめながら前に進む。パターン化されていない。そこには音楽の最もだいじな要素の一つ”音符のニュアンス”がある。叩くもの、音色、音量、スピードといった音楽的選択は当たり前のこと、なにを思って叩いているかという最も大事なことが一打一音を形成する。今ここに何が必要か、自分はどうするか、みんなはどう思っているか、ここを叩いたらどうなるのか……。あれこれ熟考した上でのドラミング。楽しみながらも神経を使ったであろう。即興演奏の場では、良いフレーズが良いバッキングを呼び、また良いフレーズを呼ぶ。より考え抜かれた、洗練された、新鮮なフレーズの連鎖。この結果生み出されたものが良いリズムとなって躍動感を生む。フレーズやアイディアが途切れるときはリズムもダウン、下手をしたら停まってしまう。最初からリズムというものが独立してあるのではなく、質の高い会話の継続の産物がそれだ。古澤さんの一曲ごとに対する豊かなイメージと平明さの下、耳を研ぎ澄ませ、視覚、そして古澤さんにしかない勘も全開で、一拍一拍進む、無上の連鎖。そうしてできあがったのが古澤さんのリズム。


古澤さんと私、ラストライブ

リスペクト

 NYに住んでいる友人との会話の中でリスペクトという言葉を良く耳にする。多民族が混在するところでの生活は、先ず互いに尊敬し認め合うことが前提になるという。占領下という抑圧状態で育った古澤さん、理不尽なこともたくさん見てきただろう。戦後復興の中、自分自身が力を付けないと何事も始まらないと全力で生きた。そして音楽に進んだ。東京の音大に入ったが、そこは野球部も含め完全に体育会系だったと。ここでもまた修行の日々が続いた。私は21歳で古澤良治郎クインテットに入団した。ただの小僧である。でも古澤さんは全国どこででもミュージシャン、関係者、お客さん、友達……誰に対してもキチッと紹介してくれた。実力も社会経験も何も無い一介の若造に、自覚を持たせようと対等に扱ってくれた。これが私のリスペクトという概念との最初の出会いだった。そのとき古澤さんは32歳。そんな荒々しくたくましい環境から卒業して10年しか経っていないのに、出会ったときから極めて紳士的で理性的、かつ論理的だった。創造性とはお互いにリスペクトし合うことが前提で成り立つということを教わった。当時の写真に写っている私は、ジャズ界の猛者の中に”もやしっ子”一人。あのころの新人類だったのだろう。気を遣わせちゃったね、古澤さん。古澤バンドに入って最初のライブ終了後に言ってもらったこと。『一番良いフレーズから入ってこい!』

音楽が強かった

 弟子達の間では『なんだって!?』をマネするのが流行った。それは紛れもなく訛っているから楽しいわけだ。古澤さんは18歳で西荻に移り住んで40余年、仙台のリズムを持ち込み、それを失わなかった。フツウ、ところ変われば悩み気も遣い、そこのリズムに感化されみんなと同じ喋り方になる。しかし古澤さんは変わらなかった。古澤さんが不器用なのだとは思わない。持ち前のリズム感、つまり言語感覚が強かったのだ。故に音楽が強かった。どこに行っても、誰と居ても影響されない自分があった。東京という大都会でも人と違う事を恐れなかった。最初は焦ったけど。独特のリズム感で生きていても、意味、中身を理解し合えればなんの問題もないことも知っていた。とにかく言いたいことがたくさんあった。叩きたいことがたくさんあった。メロディをたくさん思いついた。演奏していると楽しくてしかたなかった。人に興味があった。町の変化に敏感だった。タバコ吸いたかった。焼酎呑みたかった。そしていつもみんなと居たかった。

いま古澤さんは間違い無く、みちのく上空にいる。

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